胸の痛み


 吐いた息が凍ってしまいそうな、冬の空気の清冷さが部屋に染み込んでくる。
 明り取りの円窓から、澄み通った月影が、静かにベッドの上へと降り注いでいる。薄い夜の
闇を透かして、なぎさは、同じベッドで眠っているほのかの顔を窺った。
 ほのかの家に泊まるのは、今回で二度目だったが、その話が出たのは今日の帰り際だっ
た。
「また……急な話だよね。ほのかのおばあちゃん、今日もどっかでお泊り?」
「ううん、そうじゃないの。その…おばあちゃまは家にいてくれるんだけど……」
 何かを言いづらそうに口ごもるほのかに、なぎさは殊更明るく返事を返した。
「オッケーッ! じゃあ、いったんウチに帰ってから寄らせてもらうよ。着替えとか、明日の学校
の準備とかもしていかなくちゃいけないし」
「うん……、じゃあ、こっちもお茶菓子とか準備して待ってるから」
 なぎさが雪城家を訪れてからも、ほのかの様子は、いつもとは何かが違っていた。何がどうと
は言えないあたり、なぎさには随分歯がゆく思えた。
(ほのか……、一体今日はどうしたのかな?)
 お伽話に出てくるお姫様のように、すっと通る鼻梁を乗せた端正な面立ちを間近で眺めなが
ら、なぎさは苦々しい笑いを漏らした。
(それにしても、ほのかってホント綺麗すぎ…、アタシなんかとはマジで月とすっぽんぽんだよね
ぇ…)
 王子様の口付けを待つ眠り姫のような親友の寝顔に、なぎさは飽くことなく見蕩れていた。す
ると、不意にほのかの両目が開いて、なぎさの方を向いた。思わずドキッとして、なぎさが顔を
引き攣らせた。
「どうかしたの、なぎさ?」
「あ…いや、べ…別に。その…大丈夫、変なこととか全然してないから……。て…てゆーかさ
ぁ、ほのか、起きてたの?」
「うん……」
 眼差しにも随分と元気が無い。上手い言葉が浮かばないなぎさは、どうしようかと散々迷った
が、とうとうほのかに尋ねてみた。
「もしかして、この前のクリスマスの事? ……キリヤ君のこと、考えてたの?」
 光と闇との衝突により生まれた歪みに呼び寄せられ、そして再び帰っていった少年。ほのか
が彼に対して、少し複雑な想いを抱いているのを、なぎさは知っている。
 だが、ほのかは少し逡巡してから、小さな溜息をついて、首を横に振った。
「違うの。私が考えていたのはね…………なぎさの事なの」
「アタシの事?」
 小さな沈黙の後に、ほのかが、夜の静けさに溶けそうな声で続けた。
「私ね、なぎさがいなくなっちゃうんじゃないかって……考えてたの。キリヤ君みたいに、私の前
から消えちゃうんじゃないかって」
「まさかっ、アタシがほのかの前からいなくなるなんて……、そんなことあるわけないよ。ほら、
この前ちゃんと約束したじゃん。アタシはほのかのそばにいるって」
「うん……。あの時は本当に嬉しかった。私ね、なぎさと一緒にいる時が一番楽しいの。二人で
おしゃべりしたり、買い物に行ったり……」
「アタシもほのかといる時が一番楽しいよ」
「なぎさと一緒に過ごす時間が幸せすぎて……、他の何もかもが色あせちゃうほど……」
 ふと、月を雲が遮ったのか、部屋に落ちる闇が濃くなった。
「なぎさはね、私の一番大切な友達なの。だからね……、世界で一番幸せになってほしいの」
 ベッドの中で、ほのかの手が伸びて、なぎさの手に触れた。なぎさがそっとほのかの手を握
る。
「だからね…、なぎがちゃんと藤村君に告白して、二人が恋人同士になれますようにって……、
なぎさのことを毎日考えてた……」
 また短い沈黙が降りた後、ほのかが寂しげな声で続けた。
「でもね、そうなったら、私……、なぎさと一緒に過ごせる時間が減っちゃうんじゃないかって…
…」
「そんなことないってっ! アタシ、もし藤P先輩と一緒になれたって、今までと同じくらいほのか
と一緒にいるよっ! 今まで通りにおしゃべりして、買い物にも一緒に行って……」
 親友の優しさに、ほのかが微笑みを見せた。
「森岡さんの時もそうだったけど、なぎさって、すっごく友達思いで優しいよね。でもね……、恋
人同士には二人だけの時間も必要でしょ」
 ほのかがなぎさの手をぎゅっと握り返した。心の底から、最も親しい存在であるなぎさの幸せ
を望んでいた。なのに、その気持ちがどんどんと揺らいでくる。
「なぎさと藤村君が恋人同士になって……だんだん二人の幸せな時間が増えていって……、い
つか私だけが取り残されちゃうんじゃないかって……、一人ぼっちになっちゃうんじゃないかっ
て……」
「そんなことないっ! 絶対ないっ! そんなこと言ってるとアタシ……アタシ本気で怒るよッ!
 アタシにとって、ほのかがどれほど大切な存在か……分かってるでしょ…………」
 不安に震え始めたほのかの体を、なぎさの両腕が力強く抱き寄せた。痛いほどに、ほのかの
華奢な体を抱き締める。
 ほのかの胸に広がっていた不安を、なぎさが力強く、完膚なきまでに否定してくれた。ぽろぽ
ろと両目から溢れ始めた涙に混ざって、不安がどんどんと体外に排出されていく。
「ずっと……ずっと一緒にいてくれるよね、なぎさ……」
「当たり前じゃないっ。アタシとほのかってさ、恋人や夫婦以上のパートナーなんだから……!」

 …………泣き疲れて眠ってしまっていたらしい。
 閉じた目蓋にかかる暗さから、まだ夜が明けていないことを知る。
 ベッドの中にほのかとなぎさ、二人分の体温がこもっているせいか、暖か過ぎて、少し息苦し
い。特に、胸の上に重しでも置かれたように息がしづらく、そのせいで目が覚めてしまったよう
だ。
「…………きゃあっ」
 苦しい胸のあたりをまさぐろうとした手が、ふさっとした頭髪に触れたことよりも、第二次性徴
の瑞々しい実りをみせる胸へ、すりすりと頬擦りされたことに驚いて、がばっと上半身を起こし
た。
 そのあおりを受けて、くてんと仰向けに転がったなぎさの寝顔を見て、ほのかは安堵の溜息
を漏らした。
(なんだ、なぎさだったの……)
 赤ん坊のように無垢で無防備な寝顔を見ていると、急にクスクスと笑いがこみ上げてきた。
(幸せそうな顔……藤村君の夢見てるのかな? それとも、やっぱり美味しいもの食べてる
夢?)
 すべすべとした頬を、つんつんとつついてみる。その指に反応したのか、なぎさが寝ながらに
して顔を動かし、カプッとほのかの指を咥えた。
(……!)
 ビックリするほのかにお構いなく、ぢゅううぅぅぅっと強く指に吸い付いた後、にへら〜〜っと口
元を弛緩させて、再び幸せそうな寝顔を晒した。
 ぷっ…と吹き出す口元を必死に押さえて、痙攣でも起こしたかのように体を震わせながら、ほ
のかが声無く笑い転げた。ひとしきり笑ってから、なお笑いの収まらない状態でベッドから降
り、机へと向かう。
 椅子に腰掛け、石の番人より貰った、この世界でたったふたつ、ほのかとなぎさだけが持つ
プリキュア手帳を開く。白紙のまま置かれているページを、光の園の力を秘めたライトで照らす
と、今までにほのかが書き綴った色々な言葉が浮かび上がってきた。
(なぎさのこと……いっぱい書いてある)
 思い出と共にページをめくり、そして、最後に書き込んだページをそっとライトで照らす。
『なぎさをとられたくない』
 たった一行に込められた、ひどく切ない胸の痛み。
 この言葉を書き込んだ時のつらさを思い出して、一瞬だけ柳眉の下を翳らせるも、すぐにい
つもの優しげな表情へと持ち直した。
(いっぱい泣いて……すっきりしたから。それに……)
 静かに胸に手を当てる。目には見えないし、感触もないが、それでも、それがそこにあるのを
感じられた。
 ほのかとなぎさ、二人の結び付ける強い絆。
 どれほど物理的な距離をおいても、どれほど離れ離れの時間を経ても、決して断ち切ること
の出来ない、二人が最高のパートナーであるという証。
 最後に書き込んだ一文の上にペンを当て、幾重にも線を引いて、かき消していく。
(なぎさ……、ごめんね、もう大丈夫だから)
 冷え込んだ空気がパジャマの中に染み込んできて、ほのかは、ぶるっ…と体を震わせた。そ
そくさと手帳を仕舞って、ぬくもりの恋しいベッドへもぐり込む。
(ふ〜〜、あったか〜〜い…)
 冷えた体にじんわりと浸透していく温もりに一息ついてから、眠っているなぎさに、体を摺り寄
せて体温を分けてもらう。
(そうだ、さっきのお返ししちゃおっ!)
 心の中で悪戯っぽく微笑みながら、なぎさを起こさないよう、そぉ〜っとしがみつき、少し様子
を見る。……大丈夫だ。ぐっすりと寝入っている。
 さっき彼女が寝惚けてやったように、ほのかは、なぎさの胸の上へと頭を乗せた。
 まだ青々しく、小ぶりで色気に欠ける果実だが、弾力に弾む柔らかさは、枕よりもずっと気持
ちがいい。
(あったかいし……、なぎさの胸、とっても気持ちいいっ……!)
 体温のぬくもりと、体をリラックスさせる心地良い柔らかさが、ほのかを安らかな眠りへといざ
なっていく。
 すやすやと可愛らしい寝息を立て始めたほのかの下で、なぎさが「うぅ〜」と寝苦しそうな声を
上げて、夢の中でもがいていた。

「……なんかね、たこ焼きに変身したほのかに押し潰される夢みたの」
「なぎさってばもう、そんな変な夢みないでよ……」
 次の朝、いつもの親しい仲に舞い戻った二人が、一緒に雪城家の門を出た。
 朝の間はまだ、夜中に冷えた空気が地上にじっとり張り付いていて、凍えるように寒い。 
 くしゅんっ…と、なぎさがくしゃみをした。
「寒〜。こんなに冷えるんだったら、マフラー持ってきとけばよかった…」
 いかにも寒そうに手をこすり合わせるなぎさの首に、ふわりと暖かなものが巻き付けられた。
「風邪引かないようにね」
 自分がしていたマフラーを、なぎさの首に巻いたあげたほのかがにっこりと笑う。
「ほのかのマフラー…あったか〜〜い……」
 ありがたそうに呟きながらマフラーに頬擦りしていたなぎさが、急に距離を詰めてきた。
「うん?」
 ほのかの首にもふわりとマフラーが巻きつく。
「ちょっと窮屈だけど……こうすれば、ほのかも暖かいでしょ」
「うん……すごく暖かい……」
 ひとつのマフラーに、身を詰めて何とか二人でくるまる。
「……昨日はごめんなさい」
「ううんっ、いいっていいって。気にしないで」
 なぎさが、ニッと微笑んだ顔をほのかへと向ける。まるで、陽の光のように明るい表情で笑う
なぎさに、ほのかが、朝露のように綺麗な笑みを返した。
「私ね……なぎさのこと、応援するから。これからずっと……なぎさが結婚しちゃうまで、めいい
っぱい応援するから!」
「ほのかがそう言ってくれると、ホント心強いよ。……その、ありがと」
 何となく照れて、顔をうっすらと赤くしたなぎさが、頬をぽりぽりと指でかきながら、はにかんで
礼を言う。 
「うん……、アタシも、ほのかの気持ち無駄にしないよう、力いっぱいがんばるから……。そうだ
っ、ねえねえ、ほのか! 次の日曜、結婚式の特訓しようよ!」
「結婚式の……特訓?」
「そうそう、アタシね、ほのかに向かってブーケ投げるから、絶対キャッチできるように……」
「いや……特訓するほどのことでも……てゆーか、普通に投げてくれれば……」
「甘い。ほのか、甘すぎ。結婚式には志穂や莉奈、弓子先輩にアカネさん……みんな呼ぶから
ね。言っとくけど、みんな手強いよ〜〜。今から特訓しとかないと、絶対みんなに競り負けちゃ
うから……」
 他愛の無い会話に仲睦まじく戯れる、いつもと変わらない光景。決して変わることの無い二
人の友情。
「それじゃあ、次の日曜、一緒にがんばろうね、ほのかっ」
「うんっ」
 何よりも強い絆で結ばれた二人は、まぶしく射す太陽にも負けないくらいの、最高の笑みを
交し合った。
 
(2004/12/23投稿)


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